リボー「生物学的事象としての記憶力」
Théodule Ribot, “La mémoire comme fait biologique”, Revue Philosophique 9 (1880), 516–47.
ベルクソンの時代には記憶研究は特別な意味を帯びて学者たちの間で新しい領域として開拓されていた。Hering, Maudsley, Wundt, Carpenter, Dugald Stewart, Taine, そしてSpencer.
この論文の中で言及されている研究者たちはいずれも一定の影響を及ぼしたが、とりわけリボーのこの論文、そして翌年の書籍『記憶疾患』(Les maladies de la mémoire, 1881)の影響は大きい。
『世界は時間でできている』のなかで触れた論点で言えば、時間内定位(localisation dans le temps)、時間観念と記憶の内的関係、種レベルの記憶としての遺伝、そして病理学の重要性など。
単純反射がある。生得的な解剖学的性質に起因するこれらの反射は、それ自体、種の進化における無数の経験によって獲得され、固定化されたものであることを認めることができる。こうして私たちは、個人の記憶から、種の記憶である遺伝へと移行することになる。p. 546
しかもある程度までベルクソンに通じる要素を見出すことさえできる。
記憶というものは、心的なものであれ、器質的なものであれ、それがどこで終わるかを述べることはできない。私たちが記憶という総称で呼んでいるものには、未熟な状態から完全な状態まで、あらゆる程度の組織化がなされた系列がある。不安定なものから安定したものへ、不安定な獲得である意識状態から、固定した獲得である有機的な状態へと、絶え間なく移行しているのである。このように有機化への連続的進展が進むことで、単純化が、秩序が、素材の中に生まれ、より高度な思考が可能になります。他方で、それ自体に還元され、カウンターウェイト(contrepoids)を持たなければ、意識の消滅を進行させ、人間をオートマトンにしてしまうものです。p. 546
もちろん、周知の通り、ベルクソンでは反復による有機的記憶と意識の記憶は、安定/不安定、未熟/完成という程度の違いではなく、はっきりと本性を異にする二軸として立体的に捉え直されることになるのだが、反復がさらなる複雑化の素地として機能すると同時に、当の階層自体では単純化と無意識化をもたらすという理解はすでにある。
そしてこの論文は、健常な状態だけでなく、病的な状態で記憶を研究しなければならないと述べて閉じられている。翌年の書籍を予告しているわけだ。
記憶の病理学が、記憶の生理学を補完する。そのことをやがて目にするだろう。
興味深いのは、論文末尾で記憶と栄養摂取nutritionの問題をからめて、記憶を生命の基本条件と結びつけている点だ。この含意はどれほど展開されただろうか。
初出:旧ブログ(2022年8月26日)