書評と、それへの応答
『世界は時間でできている』
拙著『世界は時間でできている——ベルクソン時間哲学入門』(青土社、2022年)に対していただいた書評を、掲載順にまとめました。
学会誌に掲載されたものは、いずれもオンラインで全文をお読みいただけます。
新聞書評
小林卓也さん
「難問を解明する『怪物的な本』 複数の時間の共存と、世界を生み出す物質の騒めき」 『週刊読書人』2022年10月21日号 | 記事ページ
心の哲学や時間論は、こうした難問にこれまで再三挑戦してきたわけだが、本書はマルチ時間スケール(MTS)という立脚点から……これを一点の曇りもなく解明してしまう
杉山直樹さん
「斬新な着想がたっぷりと含まれた書物——哲学史研究と哲学を幸福な関係のうちに統合してみせる」 『図書新聞』3570号、2022年12月10日 | 記事ページ
押さえつければページの間からこぼれ出てくる気がするほどに、斬新な着想がたっぷりと含まれた書物だ
ベルクソン研究に限ってみても、本書が提出する解釈の多くは画期的である。[…]本書は、そうした研究史上の懸案に対して、新しい講義録なども駆使しながら、正面から一定の解決を提案する
学会誌・紀要掲載の書評
鋳物美佳さん
「書評 平井靖史著『世界は時間でできている——ベルクソン時間哲学入門』」 『フランス哲学・思想研究』第28巻、日仏哲学会、2023年、360–363頁 | J-STAGEで全文公開
稽古という時間幅のある現象を研究しておられる立場から書いてくださいました。ロボットには複数の時間スケールを実装できるのか、リズムにおける流れと抑制をMTSはどう捉えるのか、という二つの問いをいただいています。
著者がベルクソン哲学を通して描こうとしているのは、時間の中で(物質と共に)人が感じること、思い出すこと、自分として生きること、思い間違えたり時間をかけて決断したりすることなどであることに思い至った。すなわち人が物質と共に生きることであり、それを時間の内側に視座をとって記述する試みである。
明白に、著者はベルクソン哲学が哲学以外の分野とも対話することを望んでおり(一方から他方への解釈ではなく、対話である)、また読者としては、それを可能にするだけの著者の仕事の裏打ちには脱帽するばかりである。
肝要なのはレンズを持っていることでもそれがどう動くかでもなく、複数のレンズ間のスケールギャップのあいだにいるという構造のおかげで、われわれはさまざまな事象を質として経験することができる(時間が流れる)ことである。
時間スケールのずれがあることと生命があることが重なるのなら、その関係について追求しなければ、生命をすべりこませることで魔法の杖を振ってしまったことにならないだろうか。
藤田尚志さん
「風のように自由に——平井靖史『世界は時間でできている』」 『西日本哲学年報』第33巻、2025年、117–125頁 | J-STAGEで全文公開
ドゥルーズがスピノザについて語った「魔女のほうきに乗せられるような」印象から書き起こし、本書の読みやすさをLichtung(森のなかの空き地)として分析してくださっています。拡張ベルクソン主義における本書の位置づけ、そして『二源泉』が扱われていないことをめぐる指摘も。
言うまでもないことだが、このLichtungは、単に表面的な文章技巧ではなく、平井の思考の開かれてあろうとする志向・方向性そのものを示している。なぜこれほどまでに読みやすいのか。……その背景として、暗黙の前提をどこまでも暴いて、事柄を明晰に語り尽くそうとする姿勢に貫かれているからだ。
彼らをはじめ、多くの研究者が解像度を上げて見出そうとしていた(いる)のは、「ベルクソンが実際に考えていたであろうこと」だ。これに対して、本書が見出そうとしているのは、「ベルクソンが今生きていたら考えるであろうこと」である。
既存の製品を分解・解析し、その構造や機能を明らかにする技術のことを、リバースエンジニアリングという。設計図や仕様書がない製品を再現しようと試みる場合などには特に有効だ。だとすれば、本書は、まさにリバースエンジニアリング的だ。
いちばん重要なご批判は、MTSにおける上下階層の双方向性をめぐるものです。
上階と下階の双方向的な働きかけと言われていたはずなのに、実際にはもっぱら下方の働きによって事態が進んでいるように思われる。……本書が徹底的に忌避しようとしているのは、「生命」や「エラン・ヴィタル」を持ち出して「わかったふりをする」説明が介入してくる、生気論的で目的論的なベルクソン像だ。警戒の意図はよく分かるが、上方からの働きを最小限に抑えてしまうことで「産湯と共に赤子を流す」ことになってしまいはしないだろうか。
合田正人さん
「自然と進化?——平井靖史『世界は時間でできている——ベルクソン時間哲学入門』をめぐって」 『哲学誌』第68号、東京都立大学哲学会、2026年、47–61頁 | 機関リポジトリで全文公開
東京都立大学哲学会大会でのご講演にもとづく長篇論考です。2002年に『試論』を共訳したときに私が寄せた解説の記述から本書につながる萌芽を読み取る、という系譜的な読解から入り、(1)「世界は時間でできている」の「〜でできている」とは何か、(2)MTS、(3)進化、という三つの論点で問いを投げかけてくださっています。
多くの読み手が、ほとんど同じものとして読み進めるような諸概念のあいだに微妙な、しかし決定的な区別があることを繊細に読み取っていく。読みの解像度——解像度、粗視化は平井さんのキータームです——が高い、と言うのでしょうか、今回のお仕事につながる資質がすでにそこに現れていたと思います。
計測される時間と「持続」とをベルクソンは峻別しました。しかし、それをいわば逆手に取って、計測の如何にかかわらず維持される「関係構造」の同型性に「持続」ないし「時間」の「リアリティ」を求める。と同時に、同一の「関係構造」を有した複数の「スケール」(尺度)のあいだの「ギャップ」に創発性を認める、こういう発想を平井さんは持っておられると愚考いたします。それでも、これが「認識論的問題」なのか「存在論的問題」なのかという問いは残るでしょう。
アポリア〔隘路〕がアポリアとして通路——平井さんのいう「水路」——となり、またこの通路が「解決」と見えてまたアポリアをなし、新たな文脈で「解かれるべき謎に差し出される」、まさにmodus vivendiですが、その連続にハラハラさせられた、というのが私の素朴な読後感です。
平井さんは『時間』で一度だけ「量子力学」に言及しています(93)。因みに、アインシュタインが出てこないのも「意味深」ですね。……『持続と同時性』に加えて、量子力学、更にはカオス理論とのありうべき関係を考えることが、今後のベルクソン研究の課題であることは少なくとも間違いないでしょう。
関連
- 本書での言及ではありませんが、増永乃璃さんによるダヴィッド・ラプジャッド『時間の諸力』の書評(『共生学ジャーナル』第7号、2023年)でも、現在のベルクソン研究の見取り図のなかにMTSの議論を位置づけていただいています。PDF
- 三宅陽一郎さんほか「AI哲学マップ[総論・中編]」(『人工知能』第38巻2号、2023年)では、人工知能研究に示唆を与えうる哲学者のマッピングのなかに本書を取り上げていただきました。PDF
応答をいくつか
ブログなどによるレビューで質問をいただいた点のいくつかにお答えしたいと思う。
浜地貴志さんによるレビュー
1つ目:クオリアについて
(浜地さん)「「じゃあ、赤っていう知覚を見たときに、快とか不快とか感じるっていうのかな?」と考えてしまいます」
これは一般的な疑問のようなので簡単にお答えできないかもしれません。先天盲の方に赤色を説明する場面を考えてみてください。できない部分があるわけですが、「その時に説明しようとしたもの」と言えばヒットしますでしょうか…。
2つ目:記憶の「それ自体での保存」について
(浜地さん)「つまり「別のもの」にするわけではない、という言い方になるのかと考えました」
コトガラとして難しいことを述べているわけではないのですが、的確に支持/参照するのが難しいという感じじゃないかと思います。拙著150ページをご覧ください。多くの人は漠然と宇宙全体が(勝手に)存続していると考えていると思います。このことは拙著の立場からすると間違っているのですが、ここで宇宙全体が存続しているという様態に注目すると、これ、別に何か他のものに収納することによって存続させているわけではない、ですよね。何か特別な変換操作や置き場所を必要としない保存、これがそれ自体で保存ということです。
ベルクソンでは、宇宙全体についてこれを認めませんが、階層3を実現しているような生物の経験についてはこれを認める、というかたちです。
3つ目:人間(神経)中心主義について
(浜地さん)「ややもすると人間中心主義になるのではないか」「神経バンザイ・脳バンザイ」ではないか。
(浜地さん)「ひとまずはこれは、この創発を「神経でやってる」と捉えなければいいのかもしれません」
二つの方向でお答えできるかと思います。
一つは、知覚にせよ記憶にせよ、「器官帰属の誤謬」(255ページ)を避ける点で一貫していること。これは回顧的錯覚の一種であり、ベルクソンは常に、脳や神経ができる前からのストーリーで創発を考えようとしています。
二つ目は、逆の補足です。創発は6章1節の末尾(285ページ)で念押ししたように、実現した回路構造によってその維持は保証されない。構造が実現すれば、あとは安泰というわけにはいかない。あくまでも動作が未完了相を開くことが不可欠で、それは回路の完成と共に退縮するので、神経や脳が高度な回路を実現すれば意識や自由が成り立つというわけでもない。
以上をまとめると、神経や脳は創発にとって必要でも十分でもないということです。
たしかに現実の進化では、必要な遅延構造と複雑性の展開(「水路づけ」による)を神経が担っています(5章)。ですが、別な宇宙生命を考えた時に異なる実装の仕方を考えることはできるはずです(米田著参照)。
丸山隆一さんのレビュー
丸山さんのブログには他にも関連する記事として『〈現在〉という謎』のレビュー、その刊行イベントのレビューなどがある。なかでも記憶についての記事は、拙著の議論とも深く関わる重要な問題提起になっている。
1つ目:システムと反作用について
物質としての反作用と生物としての反作用は同列に語れるのか?という問いとして受け取りました。
「運動階層」という考え方(236、244、250、266など)に概念的な問題があるかもしれない。仮定しているのは、物質の相互作用に基づいて化学的な相互作用ができており、それらを組み合わせて細胞の相互作用が組み立てられているといったこと。比喩レベルで言えば、プログラムで言う機械語と高級言語の関係のように考えていましたがどうでしょうか(ソースコードの比喩を236ページで使っています)。
2つ目:どこまで計測の時間をもちこんでよいのか
(丸山さん)「どこまで「方法的な潔癖症を緩めること」が許されるのか。そこの割り切りに関して、自分に自信をもつのが難しい」
ベルクソンは「計測」を用いることを禁じていない、というのがお答えになります。『試論』について、従来からあたかもベルクソンが計測を「排斥」しているかのように受け取られることがあまりに多く、本書ではその誤解を払拭すべくそこを強調しました。
ベルクソンが批判したのは、質を計測された量と「混同する」ことであって、拙著では序章で最初にその二つのアプローチと性格について最初に「切り分け」作業を行いました。
この「切り分け」は、ある事象Aにはこちらしか使えない、というような対象領域による外延的な切り分けではなく、同じ事象Aについてどちらの手法も利用できるが、そのアウトプットを取り違えないこと、という概念的な切り分けの意味です。
例えば自らの記憶に対して「空間化」を適用すれば、出来事の系列が得られます。それは避けるべきことでもなんでもない。ただ、得られた出来事の系列は「空間化」の処理によって得られたものであって、それが「体験されている記憶」の姿だと取り違えることはあってはならないと述べているだけ。計測も計測で私たちが行う現実の認識の一様態。
雑な比喩で勘弁してもらえれば、当事者へのインタビューに基づく質的研究とビッグデータによる統計的研究の関係に似ているかもしれません。
なのでまさにご指摘の通り、MTSを記述するためには計測はむしろ必要不可欠なのです。
拙著47ページ「条件づけられるほうの時間(持続)の手前に、それを条件づけているほうの時間構造が見えてくる。そしてその解明のためには、計測の時間が必要になる」。
つまり、計測と体験は、どこまで使っていい/悪いというのではなく、使えるところで常に全力で使うべき、という(泥臭い)態度が答えになります(34、40ページ)。
この点とベルクソンが科学を手放さない哲学者であることとは表裏一体。「方法論的な潔癖」との訣別は、むしろそのためにある。
3つ目:「説明」や「理解可能性」という概念をどこまで拡張できるか
(丸山さん)「「凝縮説には、どのような状況下でどのようなクオリアが生じるかについての具体的な予測能力はない」(p.94)とされる。これは結構重要な記述で、体験をする当事者のシステムを、ミクロな物質システムの時空間パターンに翻訳することはできないということだろう。こうした、「予測力を持たない説明」というものをどう受け止めるか、態度が問われる」
この戸惑いも、丸山さんの問題意識の深いところから出てきたもので、真摯に受け取りたい。
丸山さんが引用されている直後の「どんな味の料理ができるかではなく、そもそも味なるものがどうやってできるかを問うているのだから」という文(p.94)が答えのつもりなのだが、もっと丁寧に論じるべきだったかもしれない。
「どんな味の料理ができるか」はp.64の「相関・決定の問い」で、ベルクソンの議論は、その「説明」ではなくむしろそれに直交する「産出の問い」。
もしかしたら「相関・決定の問い」の同列・延長線上で、それを補う議論と位置付けられたのかもしれない。
前者の問いだけでは永久に「了解しきれない」ところが残る。そこを補う了解の枠組みとでも言えば良いだろうか。
もっとうまい回答ができれば更新したい。